昭和52年01月05日 朝の御理解



 御理解 第81節 
 「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへ降りたらそれで安心じゃ、気を緩めるとすぐに後へもどるぞ。」

 気を緩めるとすぐに後へ戻ると。気を緩めると言う事はどう言う事。何時もこう緊張しきっとると言う事ではないと思うですね。何時も緊張しきっておるというのではない。今私合楽で言われる心行の事だと思う。不都合不行届きの事があってはならぬ。何時も心ん中に、そういう心掛けが、同時にそれとは反対の不都合ではない不行届きではない。いうなら行き届いた心の使い方が心行に依って出来るという事であって、信心をさせて頂いて実感する事は、私共が不都合があってはならない、不行届きがあってはならない。
 いやそれではない、行き届かせて頂くという、心行をさせて頂いておるとね、もうこれはそれを行じておる者でなからなければ、分からない有り難いものが頂けれる。それが神様に、一々響いておるからでしょうね。だから緊張はいらん、有り難い有り難いで出来るのです。例えばあの、何時でしたか、家内達が使う石鹸が、上の方に上げてあった。家内が後から入る時に小まいから届くまいと思うてから、一寸それを下の方に置いとって置かせて頂いた。途端にカチッとおいさみが頂くんですからね。
 本当に心を人が喜ぶ様に、と言う事はそのまま、神様が喜んで下さる事だから、もう神様に直結しておるわけです。ですから緊張し切っておるという事は、なかなか永く続くもんじゃ有りません。けれども心に心行をさせて頂くという事は、それは何時も心に掛けておる事ですし、それが行の上に現される時に、必ず自分ん心の中に有り難いなという心が頂けるんです。だから楽しいんです。
 私はここん所を不都合不行届きが無いように、そうではない不都合どころか不行届きどころか、いつも心の中に行き届かせて頂くという心の使い方、そこにはもう人が喜ぶのではない神様に通うておる、その実感が有り難いという心なんです。言うならば、自分で自分の心が拝みたい様な心の状態です。だからそういう信心をまずはだから身に付ける事だと思います。もう本気で心行に取り組ませて頂く。
 今日から寒修行が始まりました。これはやはり少し緊張しなきゃぁなりませんですね。けどもそれはまあ一月間のことです。その一月間の緊張が段々信心が身に付いてくる血に肉になってくる。そうするとそれが緊張という事ではなくて有り難い血に肉になる。そういう稽古が私は言うならば修行だと思います。何の稽古にでも修行の伴わないものは有りません。それは修行はその稽古をしておる事が身に付くことなんです。だからやっぱり修行の時には少し緊張します。又は心掛けをもって夜はテレビなんか遅うまで見る様な事はせずに早く寝ませてもらう。そしてまた朝の目覚ましのおかげをお願いする。それが段々身に付いてくるおかげ。
 昨日、福岡の松岡さん達が御夫婦でお参りになって、それから弟さん達奥さんの妹さん夫婦を同道して参られました。まあ本当にこれが世の中と思うんですけれどもね、もう山田さんと言うてもう大変手広く果物をなさっておられます。とても有名です福岡の山田さんという方は。あちらが福岡の方へ行かれる時にも、もう山田さんのいろんなお世話を頂いてあちらへ行かれた。大体新天町に世話をして下さっておったんですけれども、お願いしたら、田舎の方が良いという事で唐人町に行かれたんです。
 その唐人町に移られたのがやはりおかげの元だった。今度四階建の鉄筋コンクリ-トのうどん屋さんが出来ました。昨日一昨日でしたかね開店で、もう大変繁昌のおかげを頂いとります。本当にこちらから行かれる時、元田主丸のむつやの番頭さんをしとられました。その頃からあちらえ行って、まあうどん屋と言えばまあ資本の無い人が始める商売の様なもんですから、小さい商売から段々おかげを頂いてき、てそして只商売の上でおかげを頂くだけではなくて、それこそ自分の信心と神様のおかげというものが、所謂、日と光の音律といった様なものが備わってきておかげを頂いた。
 今度も丁度地下鉄が唐人町に出るその真ん前だそうです。場所も最高の場所になったわけです。しかももうその四階建てのお家に、子供たちの部屋自分たちの部屋次々出来て、もうそれこそ勿体のうして勿体のうしてこたえんと言うておられます。所が昨日一緒に見えられた山田さんは、つい去年頃迄は大変繁昌しとったそうですけれども、去年の半ばから大変この不況が障ってね、金銭の繰り合わせが悪くなって、それでとにかく松岡さん達がおかげを受けられるもんですから、自分も連れて参って呉れんかと言うて昨日参って見えられました。
 もうあちらに出られて二十数年になりましょうけれども、信心させて頂いておるといつの間にか何とはなしに商売のおかげを頂くだけではないそこには、言うなら天の与えという様な感じ、言うならば日の光と自分の信心の光とが一つになって輝き光るおかげになってくる。まあ大変な羽振りであった、その御兄弟の方はそれは大変な羽振りだったんです。けども今日は大変困っとられるという事です。
 それで只金光様の御信心はね、お願いしとるから良いというのではなくて、自分がお願いをするという気になるとおかげを頂きますよと。自分がお願いをするという気にならなければ一生懸命のものも生まれません。もう先生にお願いしとるからではいけん。今日からお願いをしますから貴方がたも一つお願いをする気になって下さい、と言うてお話しをしました事でした。
 昨日久留米の近見市長さん達が御夫婦とお孫さん達を連れて元旦からの初めてのお参り、御礼参拝がございました。丁度その時にすぐ後に福岡からお参りをする、モルヒネの注射を一日に二遍づつ打たなければならないと言うのが、おかげの泉を一晩中読ませて頂いて大変な感動を受けた。その感動がおかげのもとになったのでしょうか、翌日から痛まなくなった。もう七転八倒の苦しみだったらしいですね。
 だからあの注射は一年間続けるとやっぱり死ぬそうです。そういう激しい注射をしなければならないのが昨日で丁度二十五日痛まない。昨日、二十五日もう痛まないと先日から一寸痛むのじゃあないだろうかという様な感じがしたからすぐ御神米を頂かせていただいたらそのままおかげを頂いた、という御礼参拝がございました。丁度後え参って来とられましたから、近見さん達御夫婦にその事を、本当に人間が死から生への甦る様なおかげを頂く。成らないものが成る程しのおかげを頂く。
 本当に信心というものは、有り難いもんですと言うたら、それを私はしみじみ感じますと、近見先生は言われましたですよ。此の頃御理解もしっかり頂いて帰られますし、信心の有ると無いとを、また心の中に、金光様を念ずると念じないとは、はっきり違うことを、詳しくは言われませんでしたけれど、はっきりそれを感じます、と言うて後ろを向いてその方達をご覧になって、ああ本当に、信心ちゃあ大した事ですね、と言うて感心して帰られました。
 丁度私は近見さん達が退がられて、その二人が此処に出て参りましたから、もう本当に、丁度私が、昨日は神愛会のお節をしよりましたから、近見さんが見えとっちゅうんで一寸此処へ出て来たんです。そしたらそこへ入って来たけれども、先生が居られないからガッカリした所え、私が出て来たもんだから、もう夫婦の者が感涙にむせんで、お礼を言われるんです。しかし本当にあの無い命を助けて頂く。もう奥さんには、はっきり医者が言ってあった、一年もつかもてない命だという事を。それが助かると言うのですからやっぱり感激ですよね。
 だから信心をさせて頂いてね、あのおかげを受けるというだけではなくて一つのリズムが出て来るおかげ、例えて言うとね貴方達がこうやって今日お礼参拝をしたと思いよるけども、お礼参拝をしたのじゃない、させて頂いたんですよ。例えば私は今日はこの御結界の奉仕はしないのに、市長さんが見えたから先生に会いたいと言われるから、言わば私が出て来とるところえ貴方達がお参りをしてきた。
 こういう言うなら普通ならああ今日はふが良かったという所でしょうけれども、ふが良かったのじゃない、貴方がたが一心の思いでお礼に出てきとるから神様が受けて下さる印をこの様にして見せて下さるでしょう。帰りの車の中にも言わばそういうタイミングがずうっと待っとります。そういう言うならば万事万端の上に御都合お繰り合わせを頂いての生活に、これからなっていかなければ、信心生活とは言えません、というお話をした事でしたけれども、そういう万事万端の上に、御都合お繰り合わせを頂いての、日々であるという事がです、私は心行だと思うです。
 本当に例えどういう事であってもおかげだな、本当に神様の御守護の中にあるんだなと、そこにリズムを聞き取らせて頂く様な信心をさせて頂くから、私は油断をすると後え戻ると言われる、油断をせんで済むおかげ、しかも緊張するのではない、何時も耐えず自分の心の中に不行き届きな事があってはならんではなくて、行き届かせて頂く心がそのまんま心行なんです。ですからその心行には、必ず有難いというものが伴うのです。
 だから楽しうなるんです、だからリズムが出て来るんです、お繰り合わせを頂くのです。ですからここん所は大変楽しうおかげを頂かせて貰う事が出来る。信心というものはそう緊張しきったという事では永く続きません。けれどもこの一月だけは皆さん緊張して、一月だけは一つ本気で朝参りに欠がす様なことのない、こうと決めたらこれを一つ心でおかげを頂いて行かれる内に、皆さんの行き方の中にリズムが出て来る様な体験が生まれて来ると、後は有り難い。
 後え戻るのではない、心行さして頂くという事が、こんなに有り難いもんだという事を、不行き届きじゃない不都合ではない、行き届いたおかげを頂かして貰う事が出来る。それにはやはり行き届いた信心がなされなきゃあならない。行き届いた信心と言うのは緊張しきっておるという事では無い、絶えず心ん中に金光様が念じられておる。言うならば心行を心に掛けさせて頂くこと。
 その向こうに行き届いた行き方が出来る、その向こうに有り難いというものがある。だから信心は楽しゅう有り難う出来れる事の為の稽古をこの一月間一つ本気でさせて頂く。だからこの一月間は一つ本気で緊張してごらんなさい。そしてそういう信心生活出来れる信心を願いとしての寒修行でありたいと思います。向こうへ降りたら安心じゃ、一月間の寒修行を終わらして頂いたら心に何とはなしに安心が生まれて来る様なおかげを頂きたい。心が安らぐおかげを頂きたい。
 信心とはとにかく、先ずは、私自身が助かる事なんですから。それはこの寒修行に、色々な願いを掛けるという方も有ります。そりゃ掛けて悪いと言う事ではありません、掛けて居るから、緊張も自ずと出来るわけですから。けれども、問題は自分自身の心がリラックス出来れる、安心が出来れる、それをこう緊張、いうならしきった一月間を過ごさして貰うて、寒修行を頂いた、その後に頂けれる、心の助かりを一つ願っての、寒修行であらなきゃならんとね。
   どうぞ。